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Kiori Kawabeストラスブルゴ福岡店ウイメンズ

川邉 季織

TITLEChapitre 8.閑話 ~2018年読書生活のはじまり~

2018.01.18

【川邉季織の文藝日誌】

STRASBURGO福岡店勤務の川邉季織が気ままに綴る文藝日誌。

「最近、更新が滞っているようだけど...?」とお客様からご指摘を受け続けて早数か月。

ようやく私にも文化的な生活を送る余裕が戻ってまいりました。




__2018年最初の書店巡回で私の目に飛び込んできたのは、≪ユルスナール没後30年≫の文字。

2018年といえば、画家グスタフ・クリムトの没後100年、作曲家クロード・ドビュッシーの没後100年を筆頭に、レフ・トルストイの生誕190周年や藤田嗣治の没後50年などなど、注目したいアニバーサリーが目白押しです。

過日私が書店を訪れたのも、ふとしたことから作家ガブリエル・ガルシア・マルケス氏の生誕90周年を知り、いつだったか友人に貸したまま帰ってこない『百年の孤独』(スペイン語文学の金字塔と呼ばれるガルシア・マルケスの著作)を再び手元に置きたいと思い立ったからでした。

ところが、ラテンアメリカ文学の棚へ続く通路にさりげなく飾られたユルスナールの白黒写真を見つけた途端、自分がスペイン語文学など読んでいる場合ではないことを認めざるを得ませんでした。

久しく足を向けていなかったというのに以前と変わり映えのするようなしないようなフランス文学の棚をざっと眺め、ユルスナールの著作を探し、≪ユルスナール没後30年記念≫とそれらしい帯のついた1冊を購入すると早速、書店に隣接するカフェで読み始めたのでした。

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「あなたの専門はなに?」

「どんな本が好きなの?」

こんなブログを書いているもので、お客様に尋ねられることがあります。

幼少期にこじらせた活字中毒がもとで系統立てて読むことをしない"濫読派"になってしまった私ですが、大学ではフランス語を専攻してフランス文学を主に読んでいました。

専門という言葉を使うのはおこがましい限りですが、そういう理由で自室の本棚は、フランス人作家とフランス語圏の作家の本が大きく場所をとっています。


私にとって、高校時代に傾倒したイギリス文学が「感情の文学」であったのに対し、フランス文学は「観念の文学」でした。

大学時代でも、今でも、フランス文学が1番好きであるとは言いにくいものです。

訳本であろうと原書であろうと、複雑で難解。

音楽・絵画・映像など、あらゆる芸術の分野で世界を牽引してきたフランスの矜持、フランスの精神は、行間に浸みこんで常に洗練を感じさせる一方で、絶えず読み手のインテリジェンスを試します。


生と死の欲望を提示するもの。

静謐のなかの激情を暴くもの。

蛮的なエロティシズムを躊躇なく描くもの。

感覚的な美の認識を具象するもの。


そうしてそれぞれの表現のうちに、それぞれの作家が真理と考える人間の本質に迫ろうとする様がしかし、深淵を覗かんとする読者の心を惹きつけてきたのだと私は捉えてきました。

このように書けば、私にとってフランス文学が楽しいだけの読み物でないことは分かっていただけるでしょう。


さて件のユルスナールとは、言わずと知れた20世紀フランスを代表する作家マルグリット・ユルスナールのことですが、私が大学3年生のときに研究テーマとして挫折して以来、避け続けてきた作家でした。

自宅にあるユルスナールの著作は、最も知られた作品『ハドリアヌス帝の回想』ただ1冊のみ。

長らく手に取られることはなく、棚の端に鎮座しています。

それでも今回ユルスナールを読もうというつもりになったのは、

大学時代のケリをつけるため...

などという格好つけではなく、単純に『ハドリアヌス帝の回想』以前の初期作品である『アレクシス』から再読することで、道筋をたどるようにユルスナールと仲直りできるような気がしたから。

そして何といっても巻末エッセイの筆者が堀江敏幸氏であったからでした。


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(そしてまんまと堀江敏幸氏の本をまとめ買い)


堀江敏幸氏について、どう説明すれば良いでしょう。

フランス文学者として、文筆家としての氏の輝かしい経歴をご存知ない方についてはWikipediaでも頼っていただくこととして、ここから私の2018年の読書生活が始まったのでした。



(Chapitre 9につづく)

TITLEChapitre 8 MARIAGE FRÉRE ~馥郁たる香りと寛ぎの時間~

2017.10.20

【川邉季織の文藝日誌】

STRASBURGO福岡店勤務の川邉季織が気ままに綴る文藝日誌。

本日は第8回目の日誌提出

難しい小論や解説はよして、しばしの閑話でございます。




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「何かお飲み物はいかがでしょう?」

ストラスブルゴでお買い物をしていると、スタッフからそう尋ねられる場面があります。

日差しが鋭くたまらない日のご来店や、

たくさんご試着いただいたあとの小休憩、

お連れ様のお待ち時間などなど、

スタッフがドリンクサービスのご提案をさせていただくことがあるのです。

 

 ドリンクメニューは在庫状況によって異なりますが、

なかでも、季節を問わず女性のお客様からご好評をいただいているのが「紅茶」です。



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ストラスブルゴがお客様にとって快適で寛いだ空間であるように、との思いから

MARIAGE FRÉRES社のフレーバーティー、マルコ・ポーロをご用意しています。

フランスのマリアージュ家は17世紀から代々、ペルシャやマダカスカル諸島との通商に携わる家系でした。植民地産のお茶や香辛料、食料品をあつかう商いを伝統とし、父親から息子へと引き継がれた家業はリールからパリへと拠点を移します。

そして1854年に、アンリとエドゥアールのマリアージュ兄弟が、当時パリの中心であったマレ地区に紅茶専門店「MARIAGE FRÉRES(マリアージュ兄弟の意)」を開店しました。

はるか海のかなたにある中国やセイロンとのルートを維持してきたMARIAGE FRÉREは、フランスで最初のお茶の輸入会社として、良家や高級食料品店、サロン・ド・テや格式のある高級ホテルにお茶を卸すようになり、その品質の確かさは今日まで高く評価され続けています。



「お茶は高貴な飲み物である。お茶を入れる支度は技術と伝統が出会う芸術である。」

とはアンリ・マリアージュが遺した言葉であり、彼は日本茶や中国茶にあるような伝統様式や作法を紅茶の中にも見出し、〈L'art français du thé=フランス流紅茶芸術の確立をライフワークとしました。



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ストラスブルゴでお出ししているマルコ・ポーロは、MARIAGE FRÉREの紅茶の中でも特に人気のフレーバーティーです。中国とチベットの花と果物による特別な芳香が、計算しつくされた割合で調合され、優雅で贅沢な時間を演出します。

私どもスタッフは、この一流の茶葉を台無しにしてしまわないように、MARIAGE FRÉRE社の求めるきちんとした手順を踏んで、お客様に紅茶を準備しています。

ティーポットとカップをあたため

茶匙1杯の茶葉へ、あつあつのお湯を注ぎます

 茶葉が循環して浸出するまで、たっぷり2分間~3分間待ち

 カップに注いだ後、しばらくの時をおいて香りが高まったら

 最高の紅茶を味わっていただくべく、やっとお客様のもとへカップをお持ちします。

そんな訳で、ストラスブルゴのドリンクメニューの中で紅茶は、最も給仕に時間のかかる飲料なのです。

同時に、お客様から「美味しい紅茶!」とご好評をいただいたときの喜びもひとしおです。

お客様の中には、ストラスブルゴでドリンクサービスを提案されたら紅茶しか頼まないと決めている方もいらっしゃるとか。

 機会がありましたら是非、スタッフにお申しつけくださいませ。

スタッフ一同、心を込めてご用意いたします。




 いつもストラスブルゴ福岡店をご愛顧頂いている皆様と

もっともっと知的で洗練された時間を共有したい...

その思いから始まった【川邉季織の文藝日誌】

第6.5回はMARIAGE FRÉREについて余談をいたしました。

次回は閑話休題。紅茶を飲みながらごゆるりとお待ちください。




※混雑時やSALE期間中はドリンクサービスを控えさせていただきます。

TITLEChapitre 7. 『女生徒』 ~純粋という名の不道徳~

2017.05.30

【川邉季織の文藝日誌】

STRASBURGO福岡店勤務の川邉季織が気ままに綴る文藝日誌。

のろのろ更新に終止符を打つべく、ようやくPCの電源をONに。

先日、中学生の娘様とご一緒にこのページを購読いただいているという感涙を禁じ得ないお言葉をお客様より頂戴しました。誠にありがとうございます。

それならば!と川邉が書棚から取り出してきたのは、在りし日の思い出が頁の隙間から滲む1冊。

学生のうちにぜひ一度は読んでいただきたい、太宰治著『女生徒』(1939年発表)です。



__おやすみなさい。

私は、王子さまのいないシンデレラ姫。

あたし、東京の、どこに住んでいるか、ごぞんじですか?

もう、ふたたびお目にかかりません。___

               (太宰治著『女生徒』より抜粋)



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「太宰は暗い」というイメージはいつからのものでしょうか?


薬物中毒に度重なる自殺未遂、そして自堕落な私生活。

強烈な自己愛と自己嫌悪の往来を伺わせる数々の執筆作品を世に送り出し、破滅型の作家として有名になりすぎてしまったきらいはありますが、多感な中高生向けの推薦図書に『斜陽』や『人間失格』といった息苦しいほど鬱屈した空気の立ち込める作品ばかりを並べているのも、その一因のように思えてなりません。

太宰治の作品に影響されて消極的なニヒリズムに陥り、そこから抜け出せなくなってしまうことを確かに"太宰病"と呼んでいますが、中学生や高校生には是非、「明るい太宰」も薦めるべきです。

明るいと一口に言っても、からりとした笑いを誘う喜劇や天真爛漫な主題といった類の明るさとは違います。

多くの太宰作品に共通している陰鬱さや退廃性は影となり、太宰治自身の愛、安らぎ、癒し、知性、これらの側面がその独特な着眼点と透徹した文体を伴って凝集されたような作品。

そうした「明るい太宰」の作品は、純度の高い水のように、すっと心に浸透してくるものです。


『女生徒』もそんな太宰作品のひとつ。

ある女生徒が朝起きて夜眠るまでを女生徒自身の視線で書いたこの小説は、太宰治の創作活動において中期頃とされる1939年に『文學会』4月号で初掲載されました。のちに『駆け込み訴へ』(1940年発表)や『斜陽』(1947年発表)などを引き合いにしてしばしば太宰治の十八番と言われた「独白形式(=一人称体)」の確立過程を思わせる、実験的な作品です。

いつだったか、偶然手にした本のあとがきで「小説を書く人間は全員、両性具有である」と述べているのを読んだ記憶がありますが、まさしく太宰治は男性でありながら女心の代弁者と言えるでしょう。それも、第一級の。
当時、芥川賞の選考委員となり、"日本文学振興会"の理事に就任するなど文壇の高みにいた川端康成は『女生徒』を読んで、巧みに描かれた女心の解釈・分析、その理解の在り方に感動し激賞を送りました。
『女生徒』発表の4年前、第一回芥川賞の受賞を逃した太宰が選考委員であった川端康成に殺害予告を掲げたことはあまりに知られた事件ですが、そのような確執があったにもかかわらず「『女生徒』のような作品に出会えることは幸せ」と川端康成に評されるだけの魅力をこの作品は持っていたということです。



サラリイマンの眼が濁っていると批判したり

自分の下着に薔薇の刺繍があることを自分しか知らないと優越感に浸ったり

本を読んで妙に清らかな決意をしたかと思えば

その直後に他人を"ぶってやりたい"ほど憎んだり

今日は虐めた飼い犬を明日は可愛がってやろうと考えたり。

そして、「美しく生きたいと思います」と言ってみる。


すでに少女と呼ぶには育ちすぎており、しかし女と呼ぶには未成熟な不気味さ。     
時々の思いや感情は真剣ながら、駆け抜けるように心の上を通り過ぎてゆく__。


なんて裏腹な、乙女心。

なんて直情的な、女心。


こうした情的過程の起伏や揺れといったものは女である身にしかやってこないと思っていたのですが、それを書き纏めてしまう太宰の女性という性への愛を感じます。



ちなみに、私にとってこの作品の初読は小学校6年生。次に中学2年生の夏。

そして直近で手に取ったのは大学4年生の卒業論文提出前でした(提出期限に切羽詰まって専攻分野外のものを読みたくなる症候群だったようです)。

目を通す度に、決まって心に留まる一節がありました。



__ 美しさに、内容なんてあってたまるものか。

純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。___

                        (太宰治著『女生徒』より抜粋)



この場合の"無道徳"とは言わずもがな、混沌ではなく空虚のことなのですが、人間には誰しも空虚について考えたがる時期というものがあり、それはだいたい中学生~高校生のあいだであるというのが私の意見です。『女生徒』に描かれる人格の、厭世的でありながら同時に自分が今いる世界への愛着や馴れ馴れしさを隠しきれないでいる、いわゆるマージナル・マン(境界人)としての側面は筆者、太宰治の生き様を思わせるものがあります。

小説家には、自身の人格と作品のあいだに距離をおくタイプと、どうあがいても自身の根源的な欲求や抑圧を行間に潜ませてしまうタイプがありますが、太宰治は明らかに後者であり、それは作品の主題やプロットに関わらず「これが太宰治の小説である」という一種のレーベルになっているような感覚さえありますね。



学生のうちに読んでいただきたい...というのはもちろん初読のことであり、優れた文学作品はそれを読む時と場所によって実に多様で豊かな余韻を与えてくれるものです。女性の読者には、歳を重ねる毎にこの『女生徒』に書かれた純粋さと痛々しさを懐かしく自分のことのように思われるでしょう。また男性の読者には、歳を重ねる毎に女性の本能的とも言える裏腹さを感じ取り、その裏腹さをこそ可憐と捉えて下さったらと願ってやみません。

【川邉季織の文藝日誌】、今回は太宰治著『女生徒』について提出いたしました。