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Norio Surikabe株式会社サポートサーフェス代表 デザイナー

研壁宣男

TITLEググってみた道−4 ミラノホームステイ

2016.02.23

つづくと書いておきながら、随分ご無沙汰しておりました。
書き綴るという作業が体に染み付いておらず、思い感じたことを放置してしまっている感じです。
一旦頭の中でクリエーションのモードが視覚にシフトされると、どうも倫理的に文章で組み立てる作業へのギアチェンジが困難になってしまうみたい。


グーグルアースで、思い出深い過去に辿ってきた道のりを覗いてみるということで、前回はペルージャの語学大学の短期集中コースのところでした。


約3ヶ月の集中講義を終えた後、ミラノに戻って、念願のロメオの会社で働けるようになったわけですが、生活の基盤となる住む場所がありません。所持金も底を突きつつあり、精神的にも非常に心細く落ち着かない時期だったわけですが、会社からほど近い一泊2500円位のユースホステル並みの一つ星の安宿を見つけしばらくの間そこから会社に通っていました。売春宿?怪しげなホテルだと同僚から言われるくらいのところでしたが、自分自身が充分怪しかったと思われるのでまあいいかなと。

仕事をはじめて3ヶ月ほど経ち、そろそろ安宿から出たいと思っていた所、メキシコ人の同僚が住んでいたホームステイ先のファミリーの部屋の空きが出たということで紹介を受け、そこにお世話になることになりました。
事故で旦那さんを亡くしたお母さんと、三人兄妹のファミリーでしたが、二人の息子さんが結婚したため空いた部屋の一つを僕が借りることにしました。

大きなアパルタメント。4LDKで、そのうち3つの部屋にはバス、トイレがついていました。200平米以上はあったっけか。

IMG_2471.jpg

僕が借りることになった部屋にもバス、トイレがあり、日本でいうと12畳位の充分な広さのものでした。
その上、食事付き(毎日いわゆるフルコースでとても美味しかった!)でしたから、約2年間のホームステイはイタリア食文化を知る上でもとてもいい経験でした。

ここで

イタリア滞在中に気がついた日本と違う食の周辺事情

- 食事には真っ白いコットンツイルのテーブルクロスが敷かれること。(例外的なファミリーをみたことがない)とてもエレガント。
- ワイン通がほぼいない(食事中ワインのうんちくを聞いたことがない)
- カプチーノは朝だけ。(今では僕の常識)
- マヨネーズ、ケチャップ、サラダドレッシングはまず無いと思ったほうがいい。(これも今では僕の常識)


2年後、会社の分裂事件で進路に迷った自分は日本に一時帰国を決めました。帰国したのは真夏の猛暑の成田。あまりの暑さに、成田に着いた途端ムリムリと、再渡伊を決意したわけです。


すぐつづく(と思います)

TITLEググってみた道−3 イタリアへ。ちょっと無謀な片道の旅

2015.01.11

衣服のデザインを学び始めた一年生の時に偶然雑誌で目にした一枚のコートの写真が、自分の人生のベクトルをイタリアへと向わせた。そのコートのデザイナーはROMEO GIGLI。当時聞いたことも観たことも無いデザイナー。何とも絶妙な分量感のコクーンシルエットのコートだった。当時名を馳せていたパリコレデザイナーの劇場型で服自体に過剰な演出が施されている作品とは明らかに空気感が違った。いわゆるコレクションに出品される服という自分が持っていた概念を覆すものだった。
全くデザインに対する力みが感じられない。
コートはモデルの体を絶妙なバランスで優しく包み込んでいるようで、ディティールのデザインとか、鉛筆の線で描ける輪郭としてのシルエットのデザインは一切頭に入ってこない。そして何よりその服を来たモデルはほぼスッピンで慎ましく凛として見えた。

彼の元で働きたいと思った。

自分は慎重な人間だと思う。石橋を叩いている内に橋が壊れてしまうのではないかと思うくらいだ。ただ一度決めるとジェット機の様に突き進む。働きたいと思ったそのときから渡航にむけて行動した。
最終的ににたどり着いたのは日本市場にロメオを持ってきたと言っても過言ではない当時高島屋の小山寿美代さん。


小山さんは、「面接はセッティングしたるわー。でも後は知らんでー。がんばりやー。」


渡航を決めた。

渡航先が物価が今と比べるととても低かったイタリアではあったが、切り詰めても4〜5ヶ月で、お金の底はつく。無謀な計画。言葉もろくに話せず、しかも知り合いもいない。正直非常に心細かったが、足下は殆ど観てなかった。

「どうにかなるや」


ファッションコンテストで得た賞金を片手にイタリアに渡ったという話もあるみたいだが、それはガセ。
それらは殆ど生活費に消えてしまった‥...。
そんな不安の中、渡航前に、バイトをしていた企画会社から、ボーナスを頂いた。
直前にデザインさせて頂いたファーストフード店のユニフォームが業界紙で〈着てみたい制服ランキング〉で1位になったりと評判が良く、その成功報酬と、餞別をかねてということで頂いたボーナス。これは本当に有り難かった。

自分自身、なんか(帰ってきたら負け)的な今思うとあまり意味のないこだわりもあったし、周りの友達からも「しばらく帰ってくんなよ」的な雰囲気もあってか、航空券は、南回りで行くイタリアへの片道航空券。(今片道航空券ってあるのかな?)

当時時代の寵児だったロメオの元には世界中からデザイナーの卵が門を叩いていた。
小山さんのおかげで面接をセッティングしてもらい、語学が殆ど出来なかった自分にはなんと通訳まで付けて頂いた。
面接は、最初となるパリコレ直前で忙しいロメオ本人ではなく、当時会社を共同でやっていた、Carla Sozzaniさん。
日本から面接用に制作した10枚近くの作品をみせる。デザイン画や写真をみせる奴はいても、はるばる極東より面接の為に作った実物を両手に抱えて面接に挑む奴なんてあまりいないだろう。それくらいしないと当時の自分の置かれたハンディは埋められない。何せ後がないのだ。
終始にこやかに応対していたカルラさん。面接の最後に
「あなたの作品は気に入ったわ!!!(多分お世辞)
ところで、あなたは英語か、イタリア語は出来る?」
と当たり前の質問が‥...。
「イタリア語を勉強してから、来なさい」
ごもっとも。
corso comoMIXのコピー.jpg
corso como - しばらく訪れてないうちにずいぶん様変わりしたようだ。今のcorso como 10のショップのあったところは、その前ロメオジリのアトリエとショップがあったところでもあり、ここには計8年位通っていた事になる。

直前のパリコレのショーチケットを頂く事が出来、夜行でパリに。
見せて頂いたショーはロメオ最初のパリコレ参加ということもあり、大盛況。終了後のスタンディングオーベーション。拍手が鳴り止まなかった。
個人的な感想は、〈ちょっとデコラティブになっちゃったかな。〉

パリ行きにはもう一つ課題があった。
それは、イタリア語を短期間で勉強出来るところを探すこと。
当時、インターネットなんて物は無かったし、そうゆう下調べを全くしていなかったので、パリにある日本の書店で、〈地球の歩き方-語学留学編〉を見て(すみません購入せず立ち読みで済ませました)、安く、短期間で講義が受けられる語学学校を探した。
結果、週20時間のレッスンで、授業料月約2万5千円位の破格。かつ、宿泊代も比較的安く外国人の受け入れ体制も整っているイタリア中部のウンブリア州、ペルージャ外国人大学の短期コースに行くことした。
パリからペルージャに直行だ。
perugiaMIXのコピー.jpg
perugia - 城壁に囲まれた丘の上の美しい古代都市。

駅に到着するも街が見当たらない。州都のはずなのに。街は何処?学校は何処?片言のイタリア語で駅員に尋ねると、丘の上の方を指をさし、バスにのって街の中心に行くんだと教えてくれる。
そうか、日本の街は駅を中心に街が広がるが、鉄道が出来るのは欧州の都市が形成されてから随分後のこと。従って駅は街の中心から離れたところにあるのだ。欧州の街の中心には教会があるのだ。
街についたものの、学校は何処なのか?入学手続きはどうすればいいのか?
東洋人に声をかけてみる「アーユージャパニーズ?」
ペルージャでの約3ヶ月に渡るイタリア語集中特訓は始まった。


つづく

TITLEググってみた道−2 上京、学生時代

2014.11.29

デザインの分野の志しを決め、自分が選択した進学先は、美大ではなく、渋谷にある桑沢デザイン研究所。
創設者は衣服のデザイナーではあったが、むしろ他のデザイン分野の一流どころの先輩が多い学校。
僕は洋裁に興味があったというよりは、デザインの一分野としての服飾デザインに興味があったのと、専門学校にもかかわらず、美大並みの入学試験で入学生にふるいをかけていた点で、進学先の学校選択にはあまり迷わなかった。
渋谷区.jpg

代々木体育館の真ん前に位置する校舎。今は同じ場所に建て替えられているが、緑が沢山あり、デザインを勉強するにあたり刺激的でもあり、今でもとても好きな場所だ。

上京したての1年目は、食事付きの寮みたいな所が良いのではという親の進めもあり、渋谷の学校にアクセスの良い当時の新玉川線(現田園都市線)三軒茶屋駅近くの男子寮みたいな学生会館から東京生活を始めた。
三軒茶屋.jpg
早速ググってみたが、当時の学生会館が見つからない。記憶を辿り、多分この辺か(右)。今はマンションになってるのかな?
備え付けのベッドとその上下にある収納。小さい机と椅子。残りのスペースは一畳あるかないかの今思い出せば牢獄みたいな狭い空間だったが、そのことよりも、生活環境の劇的な変化と、刺激的な学校生活が楽しすぎて、住空間に対しての不満はあまり感じなかった。
当時の学生会館の名前で検索してみると、幽霊話しか出て来なかった(恐)
1年の終わり位になると、学校、都会生活に少しだけなれると共に、本当の一人暮らしをしてみたくなった。
ワンルームへの憧れ。人も呼べるし、共同トイレとか、銭湯通いではなくユニットバスがあって‥...。何よりも布が広げられミシンが置ける机とスペースが欲しかった。
親に相談するも、好きにしなさいと。ただし、仕送り額は増額なし。というのが条件。

今も覚えているが、仕送り額1ヶ月7万5千円。学生会館は、1日2食付き光熱費等込で多分6万位。残り1万5千円でなんとかやりくり出来た。(当時と今では思ったより物価が変わらないような気がする)

引っ越したのは家賃5万5千円の西池袋の新築ワンルーム。
西池袋.jpg
あったあった。道の景色が変わりすぎていてストリートヴューで当時の場所を見つけ出すのに時間がかかりそうだったが、真ん前に学校があったので割とすんなり見つかった。
記憶を絞り出し興味本位で物件概要を調べてみると、なんと11平米の狭さ。狭かった記憶はあるがせめて16平米くらいはあると思っていた。今は、礼金敷金0、保証人不要、外国人可、築30年。というなんか怪しい賃貸物件になっていた。
学生会館の様に食事付きではないし、水道光熱費も別途支払わなければいけない。仕送り額7万5千円で、家賃5万5千円はなかなか辛い。バイトしないと無理。当時学校では、バイトで課題制作に着いて行け無くなる生徒が多かった為か、生徒のバイトは推奨されていなかったが、生活の為には仕方がない。学校にほど近いのチャイニーズパブで皿洗いのバイトを週2でやり、なんとかやりくりした。
電気代払えなくなってよく止められていたな〜。
当時は未だ携帯電話は全く普及してなく、インターネットも無い時代だったし、財政的に固定電話も持てなかった。不便だったのかな?と当時を振り返ってみると、案外不便だったという記憶が無い。
なんかせわしない時代になってしまったものだ。



つづく