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Norio Surikabe株式会社サポートサーフェス代表 デザイナー

研壁宣男

TITLEググってみた道−2 上京、学生時代

2014.11.29

デザインの分野の志しを決め、自分が選択した進学先は、美大ではなく、渋谷にある桑沢デザイン研究所。
創設者は衣服のデザイナーではあったが、むしろ他のデザイン分野の一流どころの先輩が多い学校。
僕は洋裁に興味があったというよりは、デザインの一分野としての服飾デザインに興味があったのと、専門学校にもかかわらず、美大並みの入学試験で入学生にふるいをかけていた点で、進学先の学校選択にはあまり迷わなかった。
渋谷区.jpg

代々木体育館の真ん前に位置する校舎。今は同じ場所に建て替えられているが、緑が沢山あり、デザインを勉強するにあたり刺激的でもあり、今でもとても好きな場所だ。

上京したての1年目は、食事付きの寮みたいな所が良いのではという親の進めもあり、渋谷の学校にアクセスの良い当時の新玉川線(現田園都市線)三軒茶屋駅近くの男子寮みたいな学生会館から東京生活を始めた。
三軒茶屋.jpg
早速ググってみたが、当時の学生会館が見つからない。記憶を辿り、多分この辺か(右)。今はマンションになってるのかな?
備え付けのベッドとその上下にある収納。小さい机と椅子。残りのスペースは一畳あるかないかの今思い出せば牢獄みたいな狭い空間だったが、そのことよりも、生活環境の劇的な変化と、刺激的な学校生活が楽しすぎて、住空間に対しての不満はあまり感じなかった。
当時の学生会館の名前で検索してみると、幽霊話しか出て来なかった(恐)
1年の終わり位になると、学校、都会生活に少しだけなれると共に、本当の一人暮らしをしてみたくなった。
ワンルームへの憧れ。人も呼べるし、共同トイレとか、銭湯通いではなくユニットバスがあって‥...。何よりも布が広げられミシンが置ける机とスペースが欲しかった。
親に相談するも、好きにしなさいと。ただし、仕送り額は増額なし。というのが条件。

今も覚えているが、仕送り額1ヶ月7万5千円。学生会館は、1日2食付き光熱費等込で多分6万位。残り1万5千円でなんとかやりくり出来た。(当時と今では思ったより物価が変わらないような気がする)

引っ越したのは家賃5万5千円の西池袋の新築ワンルーム。
西池袋.jpg
あったあった。道の景色が変わりすぎていてストリートヴューで当時の場所を見つけ出すのに時間がかかりそうだったが、真ん前に学校があったので割とすんなり見つかった。
記憶を絞り出し興味本位で物件概要を調べてみると、なんと11平米の狭さ。狭かった記憶はあるがせめて16平米くらいはあると思っていた。今は、礼金敷金0、保証人不要、外国人可、築30年。というなんか怪しい賃貸物件になっていた。
学生会館の様に食事付きではないし、水道光熱費も別途支払わなければいけない。仕送り額7万5千円で、家賃5万5千円はなかなか辛い。バイトしないと無理。当時学校では、バイトで課題制作に着いて行け無くなる生徒が多かった為か、生徒のバイトは推奨されていなかったが、生活の為には仕方がない。学校にほど近いのチャイニーズパブで皿洗いのバイトを週2でやり、なんとかやりくりした。
電気代払えなくなってよく止められていたな〜。
当時は未だ携帯電話は全く普及してなく、インターネットも無い時代だったし、財政的に固定電話も持てなかった。不便だったのかな?と当時を振り返ってみると、案外不便だったという記憶が無い。
なんかせわしない時代になってしまったものだ。



つづく

TITLEググってみた道−1

2014.11.22

過去を懐かしむ年齢になってしまった。
懐かしい人、懐かしい場所。
過去の大切な思い出の中の人や場所は良くも悪くも記憶の中だけに留まらず、SNSのおかげで対話出来たり、見れたりするようになった。
- google earth -

夢の様な地球儀だ。
地球上の大部分の場所に瞬時に指一本で行けてしまう。3D画像も最新の画像で、随時更新されているようだ。
こんな夢の様な地球儀を前に、まずやってみたこと。それは未知の場所に行ってみることよりも、自分の過去をたどる小さなバーチャルトリップだった。
歩んで来た道。実際歩いた道。通学路、通勤路、帰宅への道のり。
今どうなっているのか、込み上げてくる懐かしさを楽しみながら‥...。

kiyomi.jpg

岐阜県高山市清見町(旧大野郡清見村)

僕が生まれて高校三年までいた故郷。
あったあった!
真ん中の細い道の先にわずかに見える白い壁の家が生まれ育った家。10年以上前に他の人の手に渡っていて、年一回お墓参りの際に通り過ぎる程度になってしまった。
名古屋方面からの中部縦貫自動車道の開通により近くにICが出来たりして、
昔の僻地感は薄れた様な気がする。
近くの河川で泳いだ夏休みが懐かしい。川で泳げたなんて幸せ者だ。
夏休みが終わると学校では〈黒んぼ大会?〉ってのがあったっけか。
背中の日焼けが凄い奴が貰った素敵なプレミア。
友達同士では日焼けによって背中の皮が何回むけたかが自慢になったのどかな時代。
中学高学年くらいになると日焼け用のクリームなんてゆう洒落た物が出回り始め、
以降、日焼けで背中の皮がむける事はむしろださい感じになった。

去年のお盆に通り過ぎた時は、河川も整備さていて、浅くなっており、泳げる感じはしなかった。
何か少し寂しく感じてしまう。
でも、もう少し上流に行けば今でも泳げるスポットは沢山あるはずだ。

川といえば、思い出した事がある。
年少時、近所の河川での親父の釣りによく付いて行ったが、
竿を持たせてもらった記憶がない。
なんで?
親父から、「ノリオ、ちょっと釣ってみるか」の一言も記憶にないし、
「父ちゃん、俺にも釣らせて」と言った記憶もない。
何とも消極的な父子関係だ。
そんな親父は中三の時に他界している。
今度の墓詣りで尋ねてみよう。

takayamashi.jpg

岐阜県高山市古い町並み(通学路)

出身高校は高山市内にある、白線流しで有名?な斐太高校。一応地元の名門校。
一学年の最初に、百人一首の全部の暗記をさせられる、拷問学校(笑)
当時何度かの追試の後、やっとでパス出来たような記憶がある。
今覚えているのは、
ひさかたのひかりのごときはるのひにしずこころなくはなのちるらむ。
この一句のみ。
何故これを覚えているのかは、不明。
前述した実家からの距離の関係で、オートバイ通学がぎりぎりかなわず、
片道8kmの道のりを自転車通学を余儀なくさせられた。
三年時は、自転車通学だと体力的な消耗が激しく受験勉強(注)に差し支えがあるという事を理由に、市内まで親戚の人に車で送ってもらい、高山駅前より、自転車通学。
今思うととても贅沢な通学路だ。


注釈:小さい頃より得意と感じていた美術系を志していたため、高三時の受験勉強は実は鉛筆デッサンだった。というオチ。


つづく